2026年07月15日
祇園祭2026(2)~くじ取り式/花前カレン
き『祇園祭2026(2)~くじ取り式/花前カレン』
(2)『祇園祭2026(2)~くじ取り式/花前カレン』
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【祇園祭2026(2)~くじ取り式/花前カレン 画像01】

祇園祭2026(2)~くじ取り式/花前カレン画像01
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くじ取り式で前祭山一番get!郭巨山(かっきょやま)2026祇園祭♪
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画像はイメージです。
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ごきげんよろしゅう、
北洞院エリ子花前カレンです♪
このページは<花前のブログ by Hanasaki Karen>改め<京この頃★北洞院エリ子花前カレン>ブログです。
本日のブログは、『祇園祭2026(2)~くじ取り式/花前カレン』です。
前回の紹介ブログ『祇園祭2026(1)~郭巨山/花前カレン』の続きです。
画像タイトルは、「祇園祭2026~くじ取り式で山一番の郭巨山/北洞院エリ子花前カレン@京都国際芸術協会」としています。
画像のサブタイトルは、「くじ取り式で山一番をゲットの郭巨山は中国の故事「二十四孝」郭巨の逸話の山で別名「釜掘り山」で金運アップのご利益♪(c)
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ファイルサブタイトルは、「くじ取り式で前祭山一番get!郭巨山(かっきょやま)2026祇園祭♪(c)
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Xツィート(旧Twitter)とfacebook用コメントは、<★祇園祭2026の前祭(さきまつり)山鉾巡行のお話しがいつの間にかそれて応仁の乱に♪>です。
OGPは、<祇園祭2026の前祭山鉾巡行(17日)~長刀鉾の次は山一番の郭巨山が応仁の乱に/北洞院エリ子花前カレン@京都国際芸術協会>としています。
「祇園祭」については、色々なタイトルで数多く書いていますが、「祇園祭」というタイトルでは過去以下のブログ
『祇園祭/暦のごはん~暮らしの歳時記(実習編)』
『祇園祭(2)/暦のごはん~暮らしの歳時記(実習編)』
『祇園祭(5)/北洞院エリ子花前カレン』
『祇園祭(4)/北洞院エリ子花前カレン』
『祇園祭(3)/北洞院エリ子花前カレン』
『祇園祭(2)/北洞院エリ子花前カレン』
『祇園祭/北洞院エリ子花前カレン』
『祇園祭2019蟷螂山/花前カレン』
『祇園祭2019蟷螂山(2)/花前カレン』
『祇園祭2019蟷螂山(3)/花前カレン』
『祇園祭2019蟷螂山(4)/花前カレン』
『祇園祭2019蟷螂山(5)/花前カレン』
「くじ取り式」については、4本シリーズで以下のブログ
『くじ取り式(4)/北洞院エリ子花前カレン』
『くじ取り式(3)/北洞院エリ子花前カレン』
『くじ取り式(2)/北洞院エリ子花前カレン』
『くじ取り式/北洞院エリ子花前カレン』
を作成してアップしてあります。
あわせてご覧いただければ幸いです。
祇園祭の山鉾巡行順を決める「くじ取り式」は毎年7月2日に行われます。
■祇園祭くじ取り式
※https://kyototravel.info/kujitorishiki
今年2026年令和8年の「くじ取り式」では、前祭(まえまつり/7月17日)の山一番は郭巨山(かっきょやま)。
そして、後祭(あとまつり/7月24日)の山一番は鯉山(こいやま)に決定しています。
山一番は、あらかじめ順番が決まっている「くじ取らず」の鉾(ほこ)に次ぐ先頭集団として巡行します。
祇園祭の山鉾巡行(やまほこじゅんこう)は大きく「前祭(さきまつり)」と「後祭(あとまつり)」の2つに分かれており、それぞれ巡行の順番は7月2日の「くじ取り式」で決定します。
くじ引きは、室町時代の応仁の乱後に巡行が再興された際、先陣争いを避けるために始まったとされています。
「くじ取り式」は応仁の乱後…ふ~む、歴史だね♪
あ、応仁の乱とは、1467年から1477年まで約11年間にわたり、京都を中心に全国へ拡大した室町時代の争乱です。
別名「応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)」とも言います。
■<「応仁の乱」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
簡単に纏めると、応仁の乱はそもそも8代室町幕府将軍・足利義政の跡継ぎを巡り、弟の足利義視(東軍)と、息子の足利義尚(西軍)が対立したこと、有力守護大名である畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の内部で起きていた後継者争い、そして幕府の有力者である細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)が、上記2つの争いに介入して全面対立した幕府トップの主導権争いが背景にあります。
畠山政長が御霊の森で畠山義就と戦った上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の戦いを機に、東軍(細川勝元)約16万人と西軍(山名宗全)約11万人が京都で衝突して、応仁の乱が勃発します。
ちょっと待ってね、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)って行った事がないので、上御霊神社について少し勉強して、撮影してきて書きたいです。
トップの画像は、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の前にある「応仁の乱勃発の地」の石碑のワンショットビジュアルです。
さて、応仁の乱では、戦術がゲリラ戦や足軽による放火へと変化し、決定打がないまま10年以上長期化泥沼化し、1473年に両大将(細川・山名)が相次いで病死したことを受けて、主要大名が撤退し、明確な勝敗が付かないまま自然に終息しました。
応仁の乱によって室町幕府の権威は完全に失墜し、日本は本格的な「下剋上」の戦国時代へと突入し、やがては、NHK大河ドラマの織田信長、豊臣秀吉・秀長の「豊臣兄弟!」に繋がって行くことになります。
応仁の乱の戦火を逃れた京都の公家や僧侶が地方へ避難し、京都の高度な文化が全国へ拡散して文化の地方伝播が盛んになります。
あ、今は昔、中学校で1467年応仁の乱の年代は「人よ(14)、むな(67)しい応仁の乱」や高校の歴史で習った事を「あ~そうだか?なるほど!」などと懐かしく思い出しながらネット検索していたら、時間がなくなりました、アチャーッ!。
祇園祭の山鉾巡行順を決める「くじ取り式」や山鉾巡行については、次回に回します。
※このブログ記事は、ブログが公開される日とタイムラグがあるかも知れませんので、内容や言い回しに不具合を感じる場合は適宜お読み替え頂いて、ご容赦くださいませ。・・・つづく
■企画・撮影:北洞院エリ子花前カレン
□スタッフ:中瀬君代、西村園子
□監修:心龍、家元エリ子@大阪南本部
□テキスト&画像編集:松本正、花前カレン、Erico_















